『ピーポーピーポ』と今日も救急車が鳴り響く。家族に同伴して救急車に数回お世話になりました。10分位の道のりをたいへん長く感じたものです。病院に到着すると、待ち受けくださった先生、看護婦さんが適切な処置の後、病室へ運ばれる。昼夜を問わず治療、看護が始まります。そこには、一人のいのちを救うため、全力を尽くしてくださる『いのちの現場が』あるのです。一方で今でも、個人の欲望、国の利益を掲げて聖戦、正義、という名のもとに人のいのちを奪う戦争が行われています。一つの世界の中に、一人のいのちを救う病院と、一瞬のうちにいのちを奪う戦争とがあるのです。なぜ、なぜとこの矛盾を感じながら二つの行為が他ならぬ人間の手で行われていることが、何とも悲しいことです。 今年815日で終戦53周年を迎えました。私は、1949(昭和24)年の戦後の生まれで、戦争を知らずに育った一人であります。その私が、戦争ということについて知りたいと思ったのは、父が12年前、母が5年前に亡くなったからであります。戦前生まれの兄姉達が集つまれば戦争中の苦労話が始まります。その中で私は、そばで『ポカン』と聞いていることが多かったのです。 私の父は、5年間の徴兵のうち3年間は、シベリアへ捕虜として抑留されたのであります。母は、夫の留守の間、6人の子供を育てました。 父のくせに『あんたはな、わしが戦死していたら、この世に生まれなかったで』といつも言っていました。

わたしのいのち・・・戦争・・・。

明治40年代に生まれた父母の生涯は『戦争』の二文字に取り囲まれた人生ではなかったでしょうか。直接的には日中戦争から第二次世界戦争の影が大なるものであったことでしょう。

父や母の戦争体験を聞きたいと思ったところには親なし、とても残念な思いです。

 そこで私は、機会あれば一人でも多くの人の戦争体験や証言を聞かせてもらいます。

 『非戦、平和』に取り組んでおられる方々の動機について私の心に残ったお話をさせていただきます。70代の前住職さんのお話です。その前住職さんは、お寺を継がれるはずだったお兄さんが戦死されました。浄土真宗の教えを学び、僧侶として、いのちの尊さをお念仏のこころ伝えようと意気込んでいる時期、一通の令状により一転して人のいのちを奪う戦場へ駆り立てられた苦悩の日々は量りしれないものでありました。

 そして、戦死・・・。

その後は家族の苦悩と悲しみの日々の始まりです。人々からお国のために『名誉の戦死』称えられても、子供を亡くした母の悲しみは深く、人前で泣くことのできない辛さが一層母を悲しませたのです。 ある日、学校から忘れ物を取りに帰った私は、その時見た仏間で泣きくずれている母の姿を忘れることができず、非戦、平和への決意を固めたのです。

1944(昭和19)年南方でお父さんが戦死された住職さんのお話です。『寺の仏間には軍服姿の父の遺影があります。父以外掲げられた遺影は、皆住職の袈裟と衣姿です。それを見るたび、父も戦争に駆り出された国家の犠牲者であるとともに侵略戦争の加害者としてあったことに思いいたります。

 父の死から23年目に叙勲があり、当時、何のためらいもなく授与式に出ました。その時の首相談話は『祖国のために命をささげられた人々の生前の功績を顕彰する』というものでした。『生前の功績』とはなにか。住職としてのそれではなく、兵士として戦ったことを指しています。

その時、妙な恥ずかしさと疑問を覚えたことが、私は今日の歩みの始まりでした。』と話なされ、続いて『国によって戦争に駆り出され犠牲になった者を』『名誉の戦死』『尊い犠牲』と誉め称え、靖国神社に祀る。それによって、国家に向けられるはずの肉親を奪われた遺族の悲しみや怒り根みは行き場を失い『英霊』に取り込まれる。これが『靖国思想』である』と聞かせてくださいました。

ご門徒で部落の責任者であったお方は次のように語っておられました、『国の命令とはいえ、戦湯はすごいものでした祖国では、お国のためと称えられているけれど、一人、おひとりの最後は、家族のこと案じて死んでいった兵士の無念さを伝えたい。特に遺族の方には、その事実をしっかりと受とめてほしい。』私達、戦争をしらない世代は、聞くこと、見ること、読むこと以外に戦争を知るすべがないのです。研修の場で南京事件(南京大虜殺。掠奪や放火、一般市民の虜殺、婦女子の強姦と殺害、武装解除された捕虜など。ブックレット平和シリーズ)@参牌)の映像を見てことばが言えない衝撃を受けました。

 また三光作戦(中国語で『殺光・焼光・奪光』)で祖父母、父母、兄弟が目前で犠牲となられた方は、その事件から60年近く過ぎた今でも昨日のことのように涙で語り、日本の人々にこの事実を知ってもらいたいとの訴えがありました。貴重な映像や証言に触れることができたことは事実を知る上で参考となりました。1995(平成7)年415日終戦50周年全戦没者総追弔法要が修行され、今年で3年を迎えました。50周年という節目が現在、私たちの『非戦・平和』への取り組みに新たな方向性が必要になると思います。なぜならば、私達の中でこの国が犯した戦争という経験が、風化、無関心、遠のいてゆくことが心配されるからです。 浄土真宗のみ教えに生きる人々の中に、『非戦・平和』運動は一部の人がやっていることだとか、『浄土真宗はなぜ靖国に反対されるのですか』ということを耳にします。 今でも「非戦・平和」の心がなかなか伝わりにくいのですが、あと30年すると、戦争体験者がほとんどおられなくなる時代がくるのです。 その時はどうなることでしょう。あらためて先の終戦50周年全戦没者総追弔法要でのご門主のご親教に学ばせていただきましょう。

   終戦50周年全戦没者総追弔法要、   ご親教より抜粋

戦争のために傷つき、たおれた方々の深い悲しみや切実な平和への願いに思いをいたすとき、私たちは、心をひきしめ、襟を正さずにはおれません。そして、とらわれをはなれて、過去の事実を確かめ、省み、戦争を繰り返さないよう、すべての人々に平和が実現するようにつとめなければなりません。それが、死をむだにしないというあります。省みますと、私たちの教団は、仏法の名において戦争を肯定し、あるいは賛美した歴史をもっております。たとえ、それが以前からの積み重ねの結果であるとしても、この事実から目をそらすことはできません。人類の罪業ともいうべき戦争は、人間の根源的な欲望である煩悩にもとづいて、集団によって起こされる暴力的衝突であります。そこでは非人間的行為が破壊されます。それへの参加を念仏者の本分であると説き、門信徒を指導した過ちを見据えたいとおもいます。宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に怒悦せずにはおれません。思えば、阿弥陀如来は、罪業を重ねる私たちを憐れみ、平等のさとりに導こうとして、本願をたてられ、よび続け、はたらき続けて下さいます。私たちは、この阿弥陀如来の本願によびさまされて、みずからの罪深い姿ありのままに認め、怒悦すると同時にかぎりないいのちのはたらきに支えられ、導かれて歩むのです。親鸞聖人有限で利己的な人間の営みを、絶対の真実と取り違えることのないようにと教えられました。私たちは、常に阿弥陀如来の大悲・智慧のお心に立ち返り、世界の人々が強い信頼で結ばれ、本当の平和がもたらされることを念願せずにはおれません。限られた資源を独占しようと貧る生き方、人間同士、分け隔てをし、優劣をつける心は、すべて争いにつながります。言論や信教の自由は、いのちを大切にし、個人を大切にする基礎です。世界の各地で争いの絶えない今、すべての「いのち」を尊ぶ仏教の精神を身につけ、実践していくことこそ、私たちの課題であると申せましょう。宗祖のみ教え「世界みな同胞」のお心を大切に、「非戦・平和」への歩みを進めたいものであります。 

                      基幹運動本部専門委員

                              毛利嘉恵子

               「町のヤスクニ」

              〔町内会と神社の問題〕

          神社のことには触れるなというタブー

「住職は政治と宗教の問題には触れるな」、20年ほど前、住職になりたての頃、先輩住職からアドバイスでした。当初、どういう意味で言われたことか言葉の真意を図りかねていましたが、うまく住職として寺院を運営しようとするなら触れてはならないタブーがあるといったものだということに気づくのに時間はかかりませんでした。 そしてそのタブーとは神社に関する行事への参加や初穂料(義務金)をめぐってのことです。町内会という地域社会に属するだけで、個人の宗教・思想におかまいなく行事への参加や義務金が取り立てられるという問題はいまも全国的にどこにでも起きている問題なのです。しかし、それが問題だという声はひろまっていません。私たち親鸞聖人の流れ受ける僧侶も門徒も「初穂料といっても金額にすればわずかなお金、文句言って地域社会の中で嫌な思いをするよりも黙っておくほうがいい」ということですませてしまっている人が圧倒的に多いとことではないでしょうか。「神社へはおつきあい程度で、信仰は阿弥陀さま一つです」と語る方がよくありますが、親鸞さまもそうだったのでしょうかとその度に問い返すことです。「この地域に属するものは、個人の宗教・思想がどうあろうがこれだけは従わなくてはならない」という神社神道の網の中にいる限り「私の信心」をいくら強調してもそれは地域で問題になることはありません。「私の信仰は神社神道の網の中にいることに耐えられません、嫌です」いったとたんに寛容に見えたはずの神社神道が牙を剥き出しにするのです。「戦前の国家神道体制下では、国家が権力でもって国の為にいのちを捧げようと命令し、死すれば強制的に靖国神社に合祀し、そして戦後も国などの公的機関が一宗教法人になった靖国神社に金的地位を与えて利用していこうとする問題」いわゆる国にかかわる靖国問題です。その国家の靖国問題を項点に広がる問題を「町のヤスタニ」と呼でいます。「地域社会の中で、地域のためという鍋の御旗の下で活動が強制され、個人の宗教・思想に関係なく神社の氏子としてしまう」という問題です。「地域社会の和を乱す」最近でも神社の問題を取り上げる者にこんな言葉を投げかけられていることも珍しくありません。地域社会のためという大儀名文の下にその網を出ようとする者にさまざま圧力がかかってきます。そう考えれば、最初に先輩住職が「住職は政治と宗教に触れるな」と言ったことは、「昔からそうだ、みんなそうだ」きた地域社会の在り方と、それと一体となってきた神道には触れないでおけ」ということだったとわかるのです。では今、あなたはどこに立とうとするのですか。それでも網を出ようとしますか?やっぱり網の中にジットとどまりますか?私たちは親鸞さまの眼差しの前で、この町内会と神社の問題から問われています。                                                

                  ご門徒の取り組み

神社の問題がどんなに困難でも親鸞さまの教えに本当に生きたい、そう願い行動するご門徒がやはり今も何人もおられます。「町のヤスクニ」を課題としてきた『備後・靖国問題を考える念仏者の会』に集うご門徒さんの歩みをご紹介します。迫さん、高橋さんの取り組み>19913月の町内会総会で、事業報告の中に、地元神社の祭礼行事負担金15万円さらに、別に一戸あたり800円を259戸預かり金として徴収、さらに別の神社の祭礼協賛費を一戸あたり50円の負担、としてあったことに問題を提起することからお二人の活動がはじまります。その町内会総会の場では、「政教分離なんかの憲法問題は、上のほうでやっていることだからこんなところへ持ちだすな」「従来から強制的徴収はしていませんよ、出さないという人からは取っていません。でもだいたい日本では昔から、敬神崇祖と言って、神を敬ってみんな仲良くやっていく伝統です」という声に拍手多数で総会終了となるというありさまだったとか。 こういう事態に対し、苦情の嘆願書」の作成、地域への文書の配布、一人ひとりへの説得と八面六非の活動が現在まで続いてし当初随分と陰口を叩かれたそうですが、今では少しずつ理解者も増え、ご自分の町内会では会費からの削除を実現し「やりましたでえ」と一言。でも全体の町内会となるとまだまだ息の長い戦いとなるといつも決意を語ってくださいます。「親鸞さまのみ教えを聞くわしら真宗門徒が、教えのままに立ち上がればこの問題は、この問題はすぐ前に進むじやが」とはいつものボヤキです。悪戦苦戦闘している方はほかにも沢山あり、その中には、町内の家を訪ね、今までの取り扱いの勘違いを説明しみんなの了解をとりつけ、町内会と神社の関係がうまく断ち切れた場合もあるます。また僧侶も同じように悪戦苦戦しています。地域の公立保育所・小中学校で神楽の発表会があり、その問題取り組む坂原さん。地元の地域子供会に神社の行事が強制されて、その問題に取り組む山名さんなど。もう一人、池田さんの活動を紹介します。備後の護国神社が毎年の初穂料を町内会お使って集てる問題に対し、宗教法人としての信者組織を通じて集められるよう申し入れの活動をしておられます。まず、「備後護国神社と町内会をかんがえる会」を作り、護国神社の宮司と奉賛会の会長、福山市長(宛職)に申し入れをしましたが、一度の申し入れでどうなるということにはなりそうにもありません。宮司はこうした申し入れははじめてのことで、戦後50年もたつのにいかに戦前の状態がそのまま放置されてきたかがしられます。「護国神社は氏子がいないいので、崇啓区域の人々の志しにすがりたい」「納めないという町内会からは強制してもらっていない」ことを繰り返す宮司や奉賛会長とのやり取りは当分続きそうです。「拒否する町内会」をふやしていくにはどうするかを今検討中です。 なぜ町内会と神道が結びつくようになったのかもともと神道という宗教は、個人の信仰を問わない、地域社会の宗教の宗教です。それがさらに徹底して、地域のみんなが氏子になることお強制されるというようなことになったには、やはり明治以降の国家神道体制からです。1871(明治4)年「国民総氏子制度」がしかれ、日本国民は一人残らず国家神道の氏子にし、神棚の設置や神社参拝の強制、また伊勢神宮のお礼を受けることが義務づけられ、それが日本の侵略戦争の拡大とともに徹底されていったわけです。1945(昭和20)年12月、国家神道体制は解体され、それぞれの神社は一宗教法人となり「国民総氏子」ということはなくなりました。そして国家神道体制の復活を断つために、公共団体と宗教に関する厳しい規制がしかれたのです。1956(昭和21)年11月、町内会と神社の結びつきに対し、文部次官を通じて厳しい禁止命令が出ています。一、神社の寄付金、祭礼費等の募集や、神符等の領布に町内会、部落名、隣組等よりの援助、又これらの機関に利用することは、昨年『国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件』の第一条事一項に反する。二、地区、町、町内会、部落等会が種種の祝祭行事を行う場合は、如何なる場合でも、神社等祝礼と厳密に分離し、誤解を生じないようにすること。なおをその費用を神社等の名義により居住者に対して募集しないこと。禁止命令が出た以上は、改めなければならないのが当然であったのに、このことは、国民に徹底されませんでした。この禁止命令そのものはサンフランシスコ講和条約で失効となったわけですが、当然その精神は、1947(昭和22)年施行された日本憲法の中で生かされているわけです。しかし1997(平成9)年『宗教年鑑』による神社神道系の信徒統計には約12百万人の氏子の数が記載してあります。これは神社の側では明らかに『国民総氏子』の制度をそのまま保持してきたものといえるのでしょう。現在国の側では、靖国神社の国家護持、それにむけての公式参拝、そしてその地ならしとして神道をあたかも地域社会の文化や習俗であるかの如く扱う裁判の一つのながれがあります。裁判も『社会通念』を判断基準にしており、社会意識の誘導により、また神道を戦前の『宗教以上の国民道徳』として復活させようという動きは大変大きくなっています。教科書の中にお祭りが取り上げられた、マスコミで神道的行事がクローズアップされるなどいたるところでその現象は進んでいます。かなしきことなり、よきことなり町内会と神社の問題は、きわめて信教の自由、政教分離という上から問題であることに間違いわけですが、町内会の法的位置づけということもあり、憲法論争では解決のつかない部分であることも事実です。 いやだからこそ逆に社会から問いかけられた、しかも誰もが避けて通ろうとする問題を、みずからの信心が問われた課題として受け止めていく真宗門徒の面目があるのでしょう。もっといえば、こうした『町のヤスクニ』という問題から問われることがなかったら、神社神道の網にからめとられたまま安住していることにさえ気づかないまま終わってしまうに間違いありません。『町のヤスクニ』が問えない僧侶・門徒を生み出した日本の歴史と教団の歩みを一人ひとりが問い返し、担ってゆくところに、親鸞さまと同じ信心へ再び立ち戻る営みがあるように思います。親鸞さまは、守護や地頭の厳しい念仏弾圧の中で、権力をもった『よのひとびと』に妥協していった人たちの信心がまことでなかったことが明らかになったことに対して、『かなしきことなり』悲痛の思いを述べておられます。しかし、同時にこうした出来事があればこそ、まことならざる信心がまことの信心に回復していくチャンスなのだとして『よきことなり』とおつしやっているのです。そして今、この『町のヤスクニ』に取り組む中で、お互いに問い返し、そして支えあう御同朋御同行を得るという何よりの利益があるということを思います。 親鸞さまも、どんなに地域社会から悪口を投げかけられ、排除されても、決つしてすてることのな同朋につつまれ、ご和讃にうたっておられます。

                

                南無阿弥陀仏をとなふれば

               十方無量の諸仏は

        百重千重囲続して

               よろこびまもりたもうなり

まもられていることを

(注釈板聖典576

今、お寺に、『町のヤスクニ』の問題に取り組む同朋が集い、共に学び、考え、活動を続けていく場になっているか、お寺の真価が問われています。

                            基幹運動本部専門委員

ご意見お聞かせ下さい                 小 武 正 教